「合気道はなぜ強いのか?」から考える武術論(その13)
「居つく」は一般的には足がその場に止まってしまって動けない状態をさす。
昔の日本人は連続して動いていたものが、そこにとどまることを「居(ゐ)る」と言った。
ちょっと立ち寄って立ち飲みする「酒屋」に対して座敷のある「居酒屋」。
動き回る厨(台所)や廊下に対して、ほっと落ち着く「居間」。
羽ばたいていた鳥が羽を休める「鳥居」。
では「居つかない」とは何か、武術的視点で4段階に分けてみた。
「居つく」とはなにか?
第一段階、棒立ちでない
両脚に重心が同時にかかり動きが止まること。
相撲では「足が揃う」と言われ負けの大きな原因となる。
K-1で昔見た「曙vsボブ・サップ」、数分の攻防の後は二人とも息があがってしまい見るに堪えない戦いに…真っ先にこれが浮かんだ(笑)
第二段階、緊張をほぐし、とまらず動く
特に対複数との戦い時には必要条件にもなるが、もちろんやみくもに動けば良いというわけではない。
第三段階、途切れない意識
例えば剣道に於いては、剣先を付け合った状態でお互いの体は微動だにしなくても意識が攻防をしていれば居着く、とは言わない。
また打突後、体は惰性で動いていても意識が途切れればダメ。つまり「続いていた意識が途切れた瞬間」を「居着き」という。
相手の剣や拳・手に捉われたり、どこかに気持ちが残ってしまわないようにし、かつそれを身体操作に活かす。腹や腰の体幹が先ず動き、それに足がついてくる武道の歩の進め方(意識が自分の重心をコントロール)を身体に覚えさせることが大切だ。
第四段階、先の先を取る、澄んだ意識
武術家で有名な甲野氏が、剣道有段者の稽古を見てこう発言していた。
『なぜ爪先立って思いきり床を蹴るのだろう。強く床を蹴るという事は、その瞬間「思いっきり居ついている」となぜわからないのだろう』。
床を蹴るその刹那の、微妙な身体や意識の変化を感じ取れないことにはこの「居つき」は分からない。意識を澄ますことができればそのような武術的境地もあり得るのかなと想像する。(続く)
参照や引用「合気道と中国武術はなぜ強いのか?(山田英司)」
整理されたり考えたことを書いていくが、あくまで金子の咀嚼、編集であることご容赦
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